※暴力表現があります。ご注意ください。


クライ・フォー・ザ・ムーン

 

 

 

 山間の空気は澄んでいて、紅く色づいた葉の合間から見える空は見事な程の秋晴れだ。けれど、うちはイタチの足取りは重く、心は地を踏む度に軋んでいった。清々しい風が吹いている間はいい。だが、止めばすぐに粘度のある澱が絡みついてしまう。心の問題なのかもしれない。

嫌な任務だった。

第三次忍界大戦からの混乱で生じた孤児たちが、徒党を組んで山賊になった。その殲滅である。山賊は自分と同じ年頃から、まだ幼児ともいえる年代の子供で構成されているらしい。忍でさえない。

何度も弟であるサスケの顔が浮かんだ。サスケは無邪気で実に愛らしい。イタチは彼を溺愛している。その弟と同じ年代の子供をも、殺さなくてはならなかった。

彼等は幼さ故か、目的の為に手段を選ばない。金を、食料を、衣類を、「くらし」を手に入れるために、既に十を下らない人々の命を奪っている。依頼は捕縛でなく殲滅だ。たったひとつのパンの為に大事な人を殺された。その遺族にとっては、当然の願いと言わざるを得ない。

 本当に嫌な任務だった。

 忍として生きるのであれば、道徳を掲げて非情を回避することはありえない。穢れを厭うのであれば、忍を止めればすむ話だ。受けた依頼は絶対に完遂しなくてはいけなかった。

「なんでオレ等なんだよ」

 前を行く男の吐き捨てた独り言を耳が拾う。何故。判り切っている。この任務の為に組まれた八人は、全てうちは一族だ。うちは一族だからこそ、押し付けられた。年端もいかぬ子供を殺すことは、殺人鬼でもない限り誰もが避けて通りたい。木ノ葉隠れの里の上層部は、その嫌な仕事をうちはに遠慮なく押し付けてきた。九尾の襲来以降、それがずっと続いている。

一族の鬱憤は溜り切っている。こんな陰湿な方法で嫌がらせをするのであれば、いっそ里からうちは一族を追い出してくれればよい。だが、里はそれもできない。如何せん、うちはは最強の一族だ。敵に回せばいくら木ノ葉隠れの里であろうとも無傷ではすまない。そしてうちは一族としても、里を出れば後ろ盾を失う。脆すぎる薄氷の上で双方身動ぎもせずに何とか均衡を保っている状態なのだ。

「イタチ」

 後ろから軽く肩を叩かれた。視界の下に、伸ばされた人差し指を確認する。勿論、振り返らない。手の主はうちはシスイだ。自分にじゃれ合いを仕掛けてくるのは、弟を除けば彼しかいない。顔立ちは整っているのに、何処か愛嬌が勝っていて親しみやすい男が、背後で笑っているのを感じた。イタチとは違い、とにかく人に好かれる男だった。

「ノリが悪いな」

 頬に刺そうとした指を暫らくそのままにしていたが、イタチに反応がないのでようやくシスイは諦めた。手が離れた肩が冷えた風に晒される。

「お前は顔が硬いんだよ。ただでさえ怖いんだからもうちょっとどうにかしろって」

「生まれつきだ」

「表情は生まれつきじゃない」

 ぐしゃりと、頭頂部を撫でられた。年齢は幾つも離れていないのだが、彼はイタチを子供扱いする。時に何もできない幼児のように接してくる。それでも、シスイにそうされるのは不思議と嫌ではなかった。

 崖がせり出した下に、程よい平地があった。草は殆ど枯れていて、邪魔になることもなさそうだ。

「ここで野営を組もう」

 班長が進行を止めた。このまま標的のところへ行っても問題ない時間なのだが、少しでも実行を先延ばしにしたいのだろう。皆が同じ気持ちなのか、異を唱える者はいなかった。

 火にくべるための枯れ枝を拾ってくるのは、年齢が一番下のイタチの役目となった。次に若いシスイには水汲みが割り当てられた。水場は通り過ぎた、少し離れた場所にあった。手間からいえば自分に押し付けられそうなものだ。良くない予感がさらりとイタチの幼い頬を撫でた。

 枯れ木を一抱え程集めて戻ってくると、残っていた六人の眼が一瞬だけイタチに集中した。その時点で嫌な「予感」は確信へと変わっていた。

「なにもさ、全員でやるこたぁねぇよな」

 一人が無駄に大きな声を出す。

「相手は忍でもないただのガキ共だ。余裕だろう?」

 作られた台詞を大根役者が読んでいるようだった。イタチは見られないように脇に息を逃がす。

 暗黙の了解であった筈だ。ただの子供相手に八人という多すぎる人数で任されたのは、「子供を殺す」という罪悪感の分散が目的である。それでも、嫌なものは嫌だ。だからこの土壇場で、誰かに全部押し付けてしまおうというのだろう。誰か。それは間違いなく、イタチである。

 うちはの宗家はすでに絶えている。女嫌いだったと伝聞されているうちはマダラは、生涯誰とも契らなかった。当然子供がいない。彼の四人いた兄弟のうち三人は幼くして夭逝し、やはり子孫を残さなかった。残る一人は子を為す年まで生きていたが、彼も独身のまま逝った。うちは宗家はマダラで潰えた。

 イタチの父であるうちはフガクは、現存する中で最も宗家に近い血筋として一族を取りまとめている。実力も頭一つ出てはいるのだが、他の追随を許さないという程でもない。フガクが筆頭であることに不満を漏らす者もいる。一族におけるイタチの立ち位置は決して盤石な訳ではなかった。寧ろ、出る杭として打たれることの方が遥かに多い。

「ここは籤でも引いて、当たったやつが一人で行くってのはどうよ?」

 白々しい賛同の声が上がった。イタチは抱えていたものを下す。反論は無意味だ。諦念とともに覚悟を決めた。自分ならば、一番苦しまない殺し方が出来る。誰かがやる事に変わりはない。そうであるなら、自分で良い。

 班長が「写輪眼は禁止だ」と前置きしてから兵糧丸を取り出した。「この一粒だけ秋道家伝来の激辛トンガラシ丸味だ。これが、当たりな」と宣言して他と混ぜた。下らない。恐らく、すべて同じ激辛の丸薬である。既に全員が味覚を麻痺させる術を施しているのだろう。

「じゃあ、一つずつとれ。シスイが戻るまでは口にするなよ」

 シスイがいない間に話を進めたのも、イタチと仲が良く、不正を嫌う彼が絶対に受け入れないからに違いない。

 一人が取って、イタチに袋が回された。早くに順番が巡ってきたのは「ずるはしていない」と示すためだろう。イタチは袋に手を入れた。どれをとって結果は同じだ。適当に拾い上げて、手の平で転がす。せいぜい彼等が面白がるように、大袈裟に「辛い」演技でもしてやろうと考えていた時だった。

「待った!」

 鋭い声が上がる。シスイだ。人数分の水筒を肩にかけ、蓋つきのバケツを両手にぶら下げている。人が歩いてきたといよりは水がシスイを連れてきたようで可笑しかった。彼の後ろで、金色になった芒が風に揺れている。イタチは、ぼんやりと綺麗だなと思った。シスイはいつも正しい。正しいからこそ、綺麗に見える。

 イタチはシスイに「問題ない。オレがやる」と意味を込めて、目配せをした。頷いてくれると思っていたシスイは、なぜか強く睨みつけてきた。

「イタチ。お前イカサマしただろう」

 耳を疑った。他でもない、自分がイカサマをしたと彼は言っている。シスイが両手のバケツを置いた。どれだけ入れてきたのか、振動が離れたイタチの足の裏に届いた。掛けていた水筒を外しては、男たちに次々と投げる。

「オレの眼は誤魔化せない」

 シスイは大股で近づいてくる。双眸が真紅に燃えていた。イタチは動揺を隠せなかった。勿論、なんの細工もしていない。何をしても自分が口にするのは「当たり」なのだ。イカサマのしようがない。

「答えろ!」

 胸倉を掴んで、引き上げられる。共に成長期である。年は近くても体格差は顕著だ。特にシスイは背が高い。イタチの爪先は地面から簡単に引き剥がされた。

「やめるんだ、シスイ」

 班長が叫んだ瞬間に頬を拳で打ち抜かれた。軽い体が宙を舞う。受け身をとろうとしたところを蹴りこまれて、毬のように地面を転がった。蒼い空と枯れた草が、視界をぐるぐると入れ替わる。痛みは遅れてやってきた。意味が解らなかった。理由も判らないうちに、鳩尾を足で踏みつぶされて血を吐いた。混乱のままに抵抗を諦めた。容赦のない攻撃が降ってきて、身を屈めた。頭を抱えた腕の骨が折れた音をはっきりと聞いた。

 何処か冷静なままだった部分を風が撫でてきた。そのやさしさに促されるように、イタチは意識を手放した。

 

 

 2

 

 目覚めは病院だった。真っ白な布団にくるまれた全身は、何処にも痛みがない。腕の当たりに僅かな重みがある。顔を傾けるとサスケが今にも泣き出しそうな表情で自分を見ていた。心配をかけたらしい。「大丈夫だ」と頭に触れてやると、顔面で笑った。それだけで、任務を受けた時から纏わりついてきた澱が払拭される。

「綺麗な骨折ばかりだったので、治療が簡単でしたよ」

 イタチの覚醒に気付いた医療忍者がそう笑った。別室にいるらしい母に伝えてくると彼女が出ていく。カーテンの隙間からは夜空が見えた。月の形を確認して、一日が経過しているのだと知った。

「父さん、怒ってなかったか?」

 うちはの総代として、父は失態を何よりも嫌う。

「そうか、ってそれだけだったよ。何か考えてたけど怒ってはなかった」

 サスケの返事に少しだけ安堵する。自分は意外に父を気にしている。彼の期待を裏切ることを恐れている。緩んだ後で、別の角度から痛みが胸を刺してきた。シスイ。彼の眼は本気の怒りを湛えていた。暴力を振るってくる拳に遠慮がなかった。一体、自分の何が彼を怒らせたのだろう。

 優秀の枠を超えて存在していたイタチは、短期間だけ在籍していたアカデミーで友人を作ることができなかった。親しくなった女の子が一人だけいるが、彼女を「友人」と括るのは少し違う。そして弟であるサスケは勿論友達ではない。

 シスイは、イタチにとって唯一と言ってよい友人なのだ。その彼に、自分は嫌われてしまったのかもしれない。

「兄さんは、怪我したから『任務を遂行できなかった』の?」

 サスケが真っ黒な目で尋ねてくる。純粋な漆黒は、あらゆる色を吸収して反射する。誰かが父に報告するのを聞いていたのだろう。覚えた言葉をそのまま使っているようだ。ここにきて自分が携われなくなった任務の結果が気になった。何か知っているかとサスケに聞くとこくりと頷いた。

「規律を乱した罰としてシスイに単独でやらせたって。それって、兄さんの物だったかもしれない手柄をシスイが取っちゃったってこと?」

 不服そうにサスケが頬を膨らませる。忍としての手柄ではあるが、人としては不名誉だ。体よく押し付けられただけだろう。とはいえ、自分の何かが彼の逆鱗に触れたことは間違いない。シスイは本気で怒っていた。それでも暴力を肯定できる道理はない。あの仕事がシスイに割り振られたのは、自業自得である。そう自分を説得しようとしたが、胸の奥がまた軋んで音を立てる。

「父さんがさ、シスイのことを甘いって言ってた」

 小さな頭が布団の上に沈んだ。何時からいたのか判らないが、眠いのだろう。自分を好いてくれる弟は、イタチの負傷にずっと気を張っていたに違いない。緊張が解けて緩んでいるのだ。

「甘い?」

「うん。知らせにきた人を見送ってから、確かにそう言ってた。兄さんに意地悪したのに、どうして甘いの?」

「さぁ、どうしてだろう。サスケはどう思う?」

 質問には柔らかい寝息が返ってきただけだった。布団に顔を埋めて眠っている。イタチは穏やかな微笑みを零すと、サスケを抱え上げて自分の隣に寝かせた。最初に折られた筈の腕は全く痛みがなかった。医療忍者が綺麗な骨折と言っていたのを思い出す。骨が中で砕けると医療忍術でも治療に時間がかかることがある。すぐに接着できるように折ったという事だろうか。

「あら、サスケったら寝ちゃったの?」

 入ってきた母、ミコトが寝入ってしまったサスケを見つけて苦笑した。心配し過ぎて疲れちゃったのねと、イタチの予想を肯定する。

「大事をとって今晩までは病院で過ごしなさいって。どこか痛むところはある?」

 優しい母の声に首を振る。胸が痛いとは言えなかった。

「明日は何時に迎えに来ればいい?」

 それにも首を振った。今すぐ退院できるくらいに悪いところはない。母の手を煩わせたくはなかった。自分一人で大丈夫だと伝えると、ミコトは少し寂しい顔をした。たまには甘えてくれていいのにと、表情から言いたいことは理解ができた。それでもイタチは「大丈夫だから」としか口にできなかった。

「そう。なら退院祝いにご馳走作っておくわ。寄り道しないで帰ってきなさいね」

 くしゃりと頭を撫でられる。何年かぶりの感触はくすぐったくて、照れくさくて、それでも胸の痛みを随分と和らげてくれた。

 

 

 3

 

 病院を出るとよく晴れていた。日差しの温かさと冷たい風がうまい具合に調和して心地良い。乾燥した落葉たちが、地面を一足早い夕暮れの色に染めている。美しい光景に目を細めて、鞄を肩に掛けなおす。担当の医者が多忙で、退院時間が遅くなってしまったのだ。サスケがやきもきしているに違いない。母の言いつけもある。早速、帰路に一歩を踏み込んだ。そのイタチの眼前を色濃い影が遮る。自然と見上げる。そこには、ある意味予想外で、ある意味予想通りの人物が立っていた。

「よぉ」

 シスイだ。笑顔で手を上げる。悩んでいた自分が馬鹿らしくなるほどに、いつもと全く変わらない笑い方だった。何もなかった。そう言いた気な振る舞いに、イタチは一瞬流されそうになって思いとどまった。理由が判らない自分は謝ることはできない。けれど、シスイにはまず自分に謝罪するべきことがある。

「お前に用はない」

 許すか赦さないかはその後だ。イタチが通り過ぎると、シスイはのんびりと自分について歩き出した。話しかけてくるでもなく、離れていくでもなく。一定の距離を保ったまま同じ道を行く。行き交う人達には、他人としか映らないであろう距離だった。

 いっそ走って撒いてしまおうかと考えていると「イタチ」と呼び止められた。シスイはイタチが意識せずに通り過ぎた喫茶店の前で、猫にでもするように手招きをしている。ケーキが美味しいと評判の店だ。前に気になると話したことがあったのだ。釣られてたまるかと背を向けると、「任務がどうなったか知りたくないのか?」と言われて動けなくなった。

 サスケが盗み聞きしたところによると、シスイが単独で当たったらしい。わざわざイタチに報告をしにきたのだから、彼はうまい具合に子供たちを逃がしてくれたのかもしれない。逡巡の末に踵を返した。

 そのイタチの行動を見て、シスイはしたり顔でドアを開ける。その様子がたいそう癪に障ったが、致し方無い。ドアチャイムが涼しい音色を響かせた。

 店内は適度に埋まっているが、大半は女性だ。男の二人連れは珍しいのか視線が集まる。イタチは少しだけ気恥ずかしかったが、シスイは気にもしない。窓際の席に案内されると、まずはメニューをイタチに渡してきた。

「コーヒー」

 受け取りもせずにそう言うと、シスイが目を丸く見開いく。店員がシスイに顔を向けたので「じゃあ、オレも」と簡単に決めた。シスイは甘味処によく付き合ってくれるが、もともと甘いものを好まなかった。

 店員は受注の会釈をして離れていった。

「甘いもの食わなくて良いのか?」

「気分じゃない。それに、話を聞きたいだけだ」

 母がご馳走を用意してくれている。こんな気分のままで腹を膨らませるつもりはなかった。

 別の女性店員が水を持ってきた。「ありがとう」と礼を言うシスイに頬を染める。愛想が良いのでシスイは女子によくもてた。

「任務は無事に終わった」

 店員がバックヤードに入ったあたりで、シスイが簡潔に告げる。

「無事って?」

「全員、オレが殺した。依頼がそうだったから」

 殺したという直接的な表現に息が詰まって、返事をすることが出来なかった。当然の顛末だ。当然だが、ならば自分にいちいち報告することでもない。

 忍者にくる依頼は、大きく二分される。身体能力的に一般人では難しい事、そして汚れ仕事だ。表の世界で非合法とされる事案を、大金と引き換えに請け負う。勿論、保護国の手前ある程度の倫理的境界は存在する。仇討ちは表では違法だが、非のない被害であれば忍への依頼は黙認されていた。今回のケースでいえば、未成年である少年達は国の法律で更生施設に入れられた筈である。それでは遺族の気が済まなかった。それ故の依頼だった。

「一つ言っておく。彼等は皆、オレを殺す気で向かってきた。子供だから、不幸だから、可哀相だから見逃してくれるだろうという素振りを見せた奴はいなかった」

 シスイはコップの水を飲む。表情に翳りはない。

「悪いことをしていると知っていた。そして、保護を少しも望んではいなかった。幼いながらに自分達でちゃんと生き方を選んでいた。そして裁かれた」

 大戦は多くの戦災孤児を生んだ。保護施設はいまだに何処も定員を超えていて劣悪な環境だと聞く。更生施設ならばより悲惨な状況であろう。彼等が犯罪とその末の死を選んだのには、確かな覚悟あったのかもしれない。だが。

「お前は嫌じゃなかったのか?」

 イタチの質問にシスイは静かに目を向けてくる。

「勿論、嫌だ。子供を殺すなんて、できればしたくないに決まっている」

「だったら何故、あんなことをしたんだ。罰則を言い訳にお前に押し付けられると解らない訳がないだろう? それに、オレの合図にお前が気付いていなかったとは思えない」

 オレがやると、イタチはシスイに合図を送った。シスイがそれを無視して自分に暴行を加えたので、押し付けられてしまったのだ。

「同じ質問を返す。お前は嫌じゃないのか? サスケと同じ年頃の子供もいたんだぞ?」

「嫌に決まってるだろ。でも」

「ならば何故、皆が嫌がることを自分がしなきゃいけないと、お前は自分で決めつけているんだ」

 イタチの口は開いたまま固まった。

 シスイの眼が、まっすぐに自分を射抜いている。いつからだろう。嫌な思いをするのは自分だけでいいと、イタチはそう考えていた。周りの人はそれを肌で感じて、時にはさり気なく、時には露骨に、全てをイタチに押し付けてきた。自分さえ我慢すれば、周りはうまく循環する。それで良いと信じてきた。皆がそれを、求めていると、ずっとそう思っていた。

「誰だって嫌なことだった。だけどオレは、お前が諦めて受け入れるのを見る方がずっと嫌だった。人が嫌がることを代わりにできるのがお前だとしても、オレにだけはその痛みを分けてくれても良かったんじゃないか?」

 友達だろう。シスイが小さく付け加えて俯く。

 あの時、シスイは自分に本気で怒っていた。そうだ。イタチは、自分に押し付けて難を逃れようとしていた人達と、シスイを一緒にしてしまっていた。シスイを否定していたのだ。

「だからお前は……」

 自分を任務に就けない状態に追い込んだのか。そう尋ねようとするのをシスイが手を広げて止める。

「ともあれ、どんな理由があろうとも暴力はいけない。オレが悪かった。だから今日はお詫びもこめてオレの奢りだ。痛かっただろ?」

 声に労りの響きがある。それが胸に酷く滲みた。確かに、痛かった。一方的に暴力を振るわれたのだ。何より意味も解らずにいた心が一番傷ついていた。だが、本当に傷つけたのは、自分の方であった。

シスイは穏やかに笑っている。自分が悪いと、謝罪させさせてはくれない。丁度、店員が珈琲を運んできた。イタチはスタンドに戻してあったメニューを手にして広げた。

「すみません。追加で超デラックスパフェください」

 瞬時に一番高いメニューを選別して注文する。

「あ、はい。あの、でもこちらのメニューは四名様以上でシェアするのを前提としておりまして……」

 値段しかみていなかった。改めて写真を確認する。切り分けられてはいるものの、メロンが丸まる二つは入っている。どう小さく見積もっても、その巨大なパフェグラスはイタチの顔よりも大きいだろう。下層は嵩増しの為か、カットされたカステラで埋めつくされていた。

「一人でいけます」

「正気か?」

 シスイが目を丸める前で、音を立ててメニューを閉じた。

「シスイの奢りなんだろう? なら、高いもの頼まないと損だ」

 店員が笑って、かしこまりましたと頭を下げた。シスイは呆れたように肩を竦める。

「お前はたまに、とんでもなく不細工な顔をするな」

 そう言って、心底可笑しそうに破顔した。

 

 

 4

 

 家までの道のりが、ここまで長く辛いことは初めてだった。既に夜である。勿論、イタチは闇が怖いわけではない。胃が、途轍もなく重いのだ。イタチの胃は四人分のパフェを詰め込んで爆発寸前だった。結局、シスイは面白そうに眺めながら、苺の一つも助けてはくれなかった。それどころか、普段は口にしない自分用の珈琲セリーを態々頼んで、これで腹いっぱいだなぁなどと強調していた。イタチはムキになって、長い時間をかけて完食したのだった。

 自宅の大きな門構えを前に、母との約束を思い出して蒼褪めた。この後ご馳走が待っている。術で消費してしまうのも手ではある。けれども、あまり褒められたことではない。食べ物を得るために、人を殺して殺された子供たちがいる。

 正直に謝罪して、明日食べよう。イタチは嘘がつけない男なのだ。平和な痛みを覚えて、玄関の戸に手を掛けた。居間に入ると、優しい母の声が迎えてくれる。食卓にはご馳走は並んでいなかった。不思議に思っていると「オレもう寝るから」と不貞腐れたサスケがイタチの脇をすり抜けていった。

「あんまり食べられないだろうけど、お菓子だけじゃ栄養が偏るからこれだけ食べなさい」

 台所に入った母が出してくれたのは茶碗一膳分の雑炊だった。

もしかして、見られた?」

「買い物帰りにたまたま通り掛かったのよ。あんな大きなの全部食べられた?」

 全く気が付かなかった。申し訳ないのと照れ臭いのとで、頬が自然と熱を持つ。

「ごめん」

「いいのよ。ちょっと面白かったわ。イタチったらムキになってパフェ食べてるんだもの」

 母は鈴を転がすように笑った。定位置に座って湯気が立つ雑炊に箸をつける。柔らかくて優しい、母の味がした。

「明日なら父さんも帰ってくるし、ご馳走は延期ね」

 向いに座った母は暫らく食事をするイタチを穏やかに眺めていた。

 ご馳走様と手を合わせると、「お粗末様でした」と返事があった。食器を片付けようとすると、止められる。

「サスケがね、すねちゃったのよ。実はサスケも一緒だったの」

 それで一緒に見ちゃったのと、母が少し困ったような顔をした。約束を破って寄り道をしていたのを見られたのだ。

「それからずっと不機嫌で」

 弟の態度の理由が判った。サスケは自分と囲む食卓を楽しみにしていたらしい。思えば最近任務が立て込んでいて、一緒に食事をしていない。

「色々言ってみたんだけど、あの子余計に臍曲げちゃって。ちょっとフォローしてあげてくれないかしら」

 退院したばかりなのにごめんねと、母が申し訳なさそうに頭を下げた。決して母のせいではない。首を振ってから、さてどうしたものかとイタチは食器を片付け始めた。

 

 

 自室を通り過ぎて、隣のドアをノックする。

「サスケ、起きてるか?」

 平素であればすぐに開かれるドアは沈黙したままだ。サスケは幼い子にしては珍しく、甘いものが好きではない。食べ物で釣ることができないので策を弄する。

「明日も休みだから一緒に修行しようと思ったけど、やめておくか?」

 一番効率の良い誘い文句を繰り出したが、反応がない。本当に怒っているのだなと、思案していると細く扉が開いた。勤勉な弟は、やはり修行の誘惑には勝てないらしい。

「絶対?」

 かろうじて隙間から見える真っ黒な片目が睨んでくる。低く唸るような響きが不機嫌を物語っていた。

「あぁ、絶対だ。入ってもいいか?」

 サスケが頷いたので、イタチはサスケの部屋に入った。広い空間は、物が多いのにきちんと整頓されていた。

独特の曲線を描く二階の角部屋は、サスケが生まれるまではイタチの部屋だった。一番陽が入り、主寝室の次に広い。この邸宅で一番良い部屋といっても過言ではなかった。それを強制された訳でも請われた訳でもなく、イタチは自らサスケに譲った。自分が持っている物は全て、彼に与えたいと思っていた。例え自分に何も残らなくとも、サスケが笑ってさえいればそれが良かった。

 かつて溢れていた玩具は、サスケの成長とともに随分と姿を消している。買ってきたぬいぐるみをあまり喜ばれなかったと、父が寂しそうに笑っていたのを思い出した。

「兄さんは」

 サスケがベッドの上にぽすりと飛び乗った。そのまま布団の上であぐらをかく。音が重くなってきている。日に日に大きくなっている。健康優良児とはいえぬ自分の背を、彼が越えていくのはそう遠い未来ではなさそうだ。

「オレよりもシスイが大事なの?」

 質問は語尾が窄まって小さくなった。余程、イタチが真っすぐに帰ってこなかったのが気に入らなかったようだ。

「悪かった。でも、話さなければいけないことがあったんだ」

 イタチはベッドの縁に座る。頭を撫でてやろうと伸ばした手を、サスケに露骨に避けられた。

「あんな顔、オレは見たことがない」

「あんなって、どんな顔だ?」

「あんな顔は、あんな顔だよ」

 説明するにはまだ語彙が足りないらしい。シスイに不細工と言われた顔のことだろうか。

「猫バァのとこの猫みたいな顔してた」

 「猫バァ」とはうちは家が特殊な忍具の調達を頼む女傑である。彼女のアジトは猫だらけだ。どの猫かと問おうとして止めた。猫達はみなうちはの人間によく懐いている。顔を出せば嬉しそうにすり寄ってくる。甘えるのだ。サスケの言いたいことが解った。イタチは、シスイに甘えている。両親にさえ巧く甘えることができない自分が、彼にだけは何故か気が緩む。幼い部分が顔を出す。

 そしてそれは、イタチが決してサスケには見せない部分でもあるのだ。何故なら、イタチにとってサスケは弟だ。イタチはサスケの兄であることに、重要な意味を持っている。イタチが生きる糧でさえある。

「友達と兄弟は比較できないだろ?」

 当たり障りのない言葉を選んだのが、良くなかった。サスケはさらに頬を膨らませる。彼の世界はまだ、家族の枠からはみ出していない。サスケには、比較対象の友達がいなかった。

「これからアカデミーで過ごすうちにお前にも友達ができる。いつか好きな子だってできるかもしれない。だけど友達も恋人も、終わってしまうかもしれない繋がりだ。でも、兄弟は絶対に、どんなことがあっても永遠に兄弟だ。喧嘩しようが死に別れようが同じ血が流れている。だから、比較なんてできない。すごいだろう?」

 イタチの話を聞いている間に輝きだした黒い瞳が、すぐにまた翳ってしまった。何か可笑しなことを言っただろうかと、確認するために顔を覗き込む。

「やっぱり、オレと兄さんは平等じゃない」

 とても寂しそうに、そう告げてきた。

「だって、オレの兄さんは兄さんだけなのに、もしもう一人下の子ができたら、兄さんはオレとその子の、二人の兄さんになっちゃうんだろう?」

 なるほど。出かかった感嘆を寸でのところで何とか飲み込む。確かに、弟妹が増える可能性はゼロではない。けれど、これから先にサスケの兄が増えることはない。サスケの兄は絶対にイタチだけである。

 イタチから弟妹に対する愛情が分割される未来はあるが、サスケからの兄への愛情はイタチだけが独占する。実に子供らしい、そして良くない計算式だ。愚かでさえあるけれど、それ故に愛おしい。

「じゃあ、こうすればいい」

 イタチがサスケに視線の位置を合わせて向かいあった。同等である証だ。

「例え弟や妹が生まれたとしても、オレはお前だけの兄さんだ。その代わり、お前がオレの分まで弟妹を可愛がるんだぞ?」

 サスケは目で感情を表現する。イタチの言葉を受け取って、薄目で反芻し、意味を解して見開いた。表情に眩しい光が戻って来ている。

「解った。それなら同じだ!」

 イタチは再度手を伸ばして、小さな頭を撫でた。自分と同じに黒い髪なのに、感触は大分違う。今度は避けられなかった。

「寝る前に本を読んでやろう。何がいい?」

「忍具取扱書の風魔手裏剣のとこがいい。明日は風魔手裏剣の使い方を修行しよう!」

 サスケは布団に入って横になった。本棚にはまだサスケ独りでは読めない本が沢山並んでいる。架空の物語に興味がない弟は、母や自分に読んでもらうのも実用書を好んだ。

 希望された本を取り出す。大人用の厚く重い本である。几帳面に付箋が貼られている箇所は、一人で読もうとしているところなのであろう。誰かを頼るだけでなく、常に自身も努力している。愛しさがじわりと胸に広がった。イタチはもう一人の兄弟を持つなど考えたことがない。そして、その未来を少しも想像したくなかった。

 イタチの愛情は細く、そして深い。とても分割して多くに向けられる類のものではない。

 尊敬する両親、たった一人の大切な友人と、淡い恋。そしてたった一人の愛すべき弟。それだけで十分であった。

「兄さん、早く」

 背後からサスケが催促してきた。

「解った解った」

 返事をしながら振り返る。嬉しそうなサスケの顔に目を細めた。

 この穏やかな日々が、未来永劫続いてくれればいい。願い事もたった一つだ。イタチは多くを望まない。細やかな幸福こそが、何よりも尊く、大切なものだと知っている。

 窓の外に浮かぶ丸い月に、ささやかな祈りを閉じ込めた。

 

 

 

【終】